今でも、「学問の神様」として多くの受験生や学業にはげむ人々の心のよりどころとなっている菅原道真(すがわらのみちざね)。実際に筆者も、高校3年生だったときに、友人から太宰府天満宮のお守りをプレゼントしてもらったことがありました。
菅原道真が学問の神様と言われていること自体は非常に有名ですが、そもそも、なぜ彼が京都から遠い大宰府に行くことになってしまったのか、知っていますか?実は、彼は一種の政治争いに巻き込まれてしまったのです。
そこで今回の記事では、菅原道真が太宰府に流されることになった「昌泰の変(しょうたいのへん)」について詳しく解説していきたいと思います。
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昌泰の変に関わる重要人物は?
昌泰の変に関わる人物としては、菅原道真、宇多天皇(昌泰の変が起きた時点では宇多法王)、藤原時平(ふじわらのときひら)、醍醐天皇(だいごてんのう)が挙げられます。
宇多天皇の次に天皇となったのが、醍醐天皇です。
昌泰の変の背景
まず、宇多天皇は当時文章博士(もんじょはかせ:詩文と歴史とを教える立場)であった菅原道真をとても頼りにしていました。それは、少し前に起きていた藤原基経との政治争いである阿衡事件において、事を収めるために菅原道真が尽力したことも大きなきっかけでした。
しかし、宇多天皇が譲位し、醍醐天皇が次の天皇として即位します。
昌泰2年、菅原道真は右大臣になります。また、左大臣の座には、藤原時平が就きました。菅原道真自身は、ここまでの出世を望んでいなかったとも言われていますが、時平だけでなく、他の貴族からも彼を疎ましく思う意見はあったと言われています。