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何故不平等な条約が結ばれたのか?密着!和親条約締結その瞬間【前半】
ペリーが締結した「下田条約」は、全部で13条ありましたが、その主な内容は、アメリカ人の移動可能範囲を下田より7里、箱館より5里四方に限り、武家・町家への立ち入りを禁じること、アメリカ人に対する一時的な休息所を了仙寺、玉泉寺に置き、米人基地は玉泉寺に置くこと、アメリカ人が鳥獣を狩猟することを禁じることなどが定められました。
なお、「下田条約」は他に1855年、1857年に結ばれたものもありますが、これらも“下田で結ばれた条約”ということから、同名の「下田条約」とされています。
ペリーはその後、琉球王国へも立ち寄り、通商条約を締結します。これにより、箱館、下田、琉球の3か所を太平洋側の寄港地として利用することができるようになりました。アメリカ側から見ると、日本列島に沿って、ほぼ等間隔に並んでいます。
一方、幕府側にとっては、ペリーと結んだのは、あくまで「和親条約」であり、この段階では、アメリカとの貿易は拒否することができました。ただ、下田・箱館にアメリカ船が出入りし、アメリカ人が暮らすことが認められました。
また、アメリカ船は、渡航に必要な物資を現地で購入することが赦されたので、通商条約締結に廃足りませんでしたが、アメリカにとって、日米間の貿易開始に、大きな布石を打つことができました。まさに、『日米和親条約』の締結は、今後の日本との貿易につながる大きな歴史的な転機となったのです。
『日米和親条約』『琉米修好条約』を締結したその後のペリーについては、以前Japaaanでもお伝えしてある通りです。
そう言えばペリー提督って「黒船」の後どうなった?幕末の素朴な疑問を紹介
晩年、ペリーが日本遠征中に体験したことをまとめた『日本遠征記』は、ベストセラーとなり、今後日本に関わっていこうとする人々を中心に、「東洋の島国」の様子を伝える貴重な民族誌になったようです。
遠征期の中で、ペリーは日本人の教養の高さ、独自の文化を高く評価していました。『遠征記』編纂の合間に、ペリーは全米各地で講演を行っていますが、その際、「日本人は将来、機械分野でアメリカの強力なライバル関係になるだろう」と予言していたといいます。さすがの洞察力です。
ペリーは、1858年に亡くなってしまいますが、その後のアメリカは南北戦争に突入してしまいます。それとほぼ軌を一にして、アメリカから、タウンゼント・ハリスが来日するのです。
参考
- 加藤 祐三『幕末外交と開国』(2012 講談社学術文庫)
- 宮崎壽子監訳『ペリー提督 日本遠征記』上・下 (2014 角川ソフィア文庫)