街全体が城郭だった「鎌倉」。その重要な防御施設「鎌倉七切り通し」を紹介

高野晃彰

好評のうちにエンディングを迎えた『鎌倉殿の13人』。鎌倉幕府は北条義時から子息の泰時に移り、そこから北条得宗家による執権政治が続いていきます。

今回は、そんな鎌倉幕府を支えた軍事上重要な拠点であった「鎌倉七切り通し」について紹介しましょう。

巨大な城郭都市「鎌倉」を守る七つの「切り通し」

鎌倉は東・西・北を小高い山に囲まれ、南が海に面するという地形で、都市全体で巨大な城郭を形成していました。

その出入り口にあたるのが「切り通し」と呼ばれる、山の稜線を切り開いて作った人工的な道です。

単なる通路ではなく、都市全体が城郭である「鎌倉」では、戦略上重要な機能を果たし、敵の侵攻から「鎌倉」を守る上で重要な役割を果たしたのです。

新田義貞を退けた要害「極楽寺切通し」

極楽寺を開創した忍性が開いたと伝えられる。坂ノ下から腰越、片瀬へ延びて東海道に通じ、京都と鎌倉を繋ぐ重要な道でした。新田義貞の鎌倉攻めでは、義貞軍が侵入を図ったものの、幕府軍の防備は固く、退けられたと『太平記』に記されています。

壮大さを国木田独歩に絶賛された「大仏坂切通し」

梶原、山崎から藤沢へと延びており、古くは「深沢切通し」とも呼ばれました。「大仏坂の切通しは鎌倉の地質にして初めて作り得るといふべきしろもの、左右の絶壁数十間」と作家・国木田独歩は、明治35 年頃の大仏坂切通しの様子を『鎌倉の裏山』で述べています。

4ページ目 切通し一帯が刑場だった「化粧坂」

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