「頼朝の跡目、さぞ重かろう……」
※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第27回放送「鎌倉殿と十三人」より
不敵に笑い、鞠を放り投げた後鳥羽上皇(演:尾上松也)。頭脳明晰、文武両道のラスボスとして鎌倉政権に立ちはだかります。
それから20数年の歳月を経て、源氏将軍の断絶を機に挑んだ決戦こそ、後世に名高き承久の乱(承久3・1221年)。
北条義時(演:小栗旬)は決死の覚悟でその挑戦を受け、尼将軍・政子(演:小池栄子)の演説が御家人たちの心を打ち、団結せしめたエピソードは有名ですね。
果たして結果は知られる通り、鎌倉方の大勝利に終わりました。後鳥羽上皇をそそのかした三浦胤義(みうら たねよし)や藤原秀康(ふじわらの ひでやす)らは非業の死を遂げ、後鳥羽上皇は隠岐島へと流され、現地で崩御されます。
鎌倉幕府にとっては宿敵中の宿敵ともいえる後鳥羽上皇ですが、実は鶴岡八幡宮の境内にお祀りされているのはあまり知られていないようです。
かつて敵味方に分かれて戦った相手をなぜ、どこにお祀りしているのでしょうか。
鶴岡八幡宮・今宮(新宮)のアクセスと由緒
後鳥羽上皇をお祀りしている今宮(いまみや。新宮とも)は八幡様の境内からいったん西に出て(※)北上=右折、「八幡宮裏」バス停の先(御谷休憩所および駐車場。鶴岡文庫の手前)を右折した細い路地の奥に鎮座しています。
住宅街の行き止まりに建つ社殿はかつてコンクリート造りでしたが、令和元年(2019年)の台風によって損壊、令和3年(2021年)に美しく再建されました。
流造の銅葺き屋根は陽光に輝き、真新しい白木の柱が森閑たる空気に映える佇まいは、お伊勢さまを髣髴とさせる風格を湛えています。
観光客で騒然とごった返す鎌倉とは、また違った表情を見せてくれるおすすめスポットです。
後鳥羽上皇は生前の嘉禎3年(1237年)に「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」と言い遺しました。
果たして延応元年(1239年)2月22日に崩御されると、その年は日本全国で疫病や飢饉、抗争が絶えなかったとか。
そこでお怒りを鎮めるために創建された当宮には、後鳥羽上皇のほか土御門院(つちみかどいん。第83代・第一皇子)、順徳院(じゅんとくいん。第84代・第三皇子)も合祀(ごうし。合わせてお祀りすること)されています。
土御門院は承久の乱にまったく関与していなかったため処罰されなかったものの「遠流となった父と苦しみを分かち合いたい」とばかり自ら土佐国へ下向(後に阿波国へ遷御)
一方の順徳院は積極的に関与していたため佐渡国へ遠流となり、父子それぞれ京都へ戻ることなく現地に果てたのでした。
怨親和解・親子再会の縁(よすが)として
人もをし 人も恨めし あぢきなく
世を思ふゆゑに もの思ふ身は※『小倉百人一首』第99番 後鳥羽院
【意訳】つくづく人間が愛しい反面、これほど恨めしいものもない。天下を憂えるがゆえにやり切れぬこの思いをどうしたらよいものか。
ももしきや 古き軒端の しのぶにも
なほ余りある 昔なりけり※『小倉百人一首』第100番 順徳院
【意訳】歳月を経て、すっかり荒れた宮中。古い軒先(※)の篠生(しのぶ。篠竹の茂み)を見てさえ、古きよき昔が思い返されてならない。
(※)軒端と言えば屋根の末端を指すことが多いものの、ここでは軒先と解釈。
承久の乱に敗れ、京都を去る時に詠んだと言われる両者の歌。朝廷の権威が損なわれ、畏れ多くも皇位にあった我が身が遠い異郷へ流される不安が伝わって来ます。
しかし敗れたとは言え決して卑屈になることなく、天下を憂うがゆえに戦った正義は、鎌倉方に勝るとも劣らぬものでした。
それを理解すればこそ、鎌倉にも後鳥羽上皇らの御霊が神として祀られ、怨親和解そして離れ離れになった父子三柱再会の縁(よすが)として今に伝えられています。
八幡様へお参りの際は、お時間が許すならちょっと足をのばして今宮へもお参りいただけると、ちょっと違った鎌倉の顔が見えるかも知れません。
※参考文献:
- 山本幸司『日本の歴09 頼朝の天下草創』講談社学術文庫、2009年4月
- 吉田茂穂 監修『鎌倉の神社 小事典』かまくら春秋社、2002年6月