長崎の原爆投下から77年。人と梯子が一瞬で影になるほどの凄まじい熱線【後編】

小山 桜子

 

前回はそもそもなぜ長崎市に投下されたのか、最初の目標は小倉市(現・北九州市)だった事を中心にたどりました。

前回の記事

長崎の原爆投下から77年。「運命」と呼ぶにはあまりに非情な驚きの事実【前編】

Japaaan読者の皆さんこんにちは。ライターの小山桜子です。前回は広島の原爆投下に関しての記事でしたが、今回は長崎の原爆投下に関する記事です。そもそもなぜ長崎市に投下されたのでしょうか。あま…

小倉上空での3回もの爆撃航程失敗し、残燃料に余裕がなくなった原子爆弾搭載機「ボックスカー」は、更に燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えるなどのアクシデントに見舞われました。

この時点で作戦中止して帰ってくれればどれほどよかった事か。しかし運命は非情です。

作戦は続行され、その間に小倉市の天候が悪化。更には日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなるなどの条件が重なり、目標を小倉市から変更し、午前10時30分頃B-29「ボックスカー」は小倉市上空を離脱、原子爆弾「ファットマン(太っちょ)」を搭載して第二目標である長崎県長崎市に向かったのです……。

長崎に原子爆弾投下

こうして広島の3日後の1945年8月9日午前11時2分、B-29「ボックスカー」が長崎市に原子爆弾ファットマンを投下しました。

投下地点は、当日の天候のため目標であった市街中心地から外れ、長崎市北部の松山町171番地(現、松山町5番地)テニスコートの上空でした。当時、長崎市の人口は推定24万人、長崎市の同年12月末の集計によると被害は、死者7万3884人、負傷者7万4909人、罹災人員:12万820人、罹災戸数1万8409戸にのぼりました。

長崎の爆心地公園には旧浦上天主堂の被爆遺構を建て替え時に移設したレンガ造りの構造物が残っていますが、残っている事が奇跡と呼べるほど、全体が焼けて崩れており、浦上地区の被害の甚大さを窺い知る事ができます。

2ページ目 人間が一瞬で影に

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