飯盛女や湯女が遊女役。幕府公認「吉原遊郭」の強敵だった非公認遊郭「岡場所」とは?

小山 桜子

 

Japaaan読者の皆さんこんにちは。ライターの小山桜子です。今回は幕府公認遊郭・吉原と、非公認遊郭・岡場所との違いに注目します。

遊郭がなければ江戸は男だらけ

そもそもなぜ江戸に遊郭ができたのか。徳川家康が天正18年8月1日(1590年8月30日)に江戸に入府し、その後、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開くと、江戸は俄かに活気付き、鎌倉以来の関東の武士の都となりました。

戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと考えられます。男女比はなんと江戸中期において人口の3分の2が男性という記録があります。

そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようになったのが江戸の遊郭の原点でした。

吉原が幕府公認になった歴史

江戸幕府は都市開発を進めるなかで、遊女屋などはたびたび移転を求められました。せっかく建てても移転ばかりで困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めました。

数度の陳情の後、元和3年(1617年)に江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可されます。その際、幕府は江戸市中には一切遊女屋を置かないこと、また遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすることを申し渡しました。

結局、遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まりました。

2ページ目 吉原の強敵・岡場所が出現!

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