血で血を洗う戦いが全国各地で繰り広げられた戦国時代。命のやりとりが行われる中で、多くの英雄が生み出されます。
特に武勲を立てた者たちについては、戦場の地名を冠して例えば賤ケ岳(しずがたけ)の七本槍などと呼ばれることもありました。
九州肥前国(現:佐賀・長崎県)を支配した戦国大名・鍋島直茂(なべしま なおしげ)の元にもそうした勇士が多数おり、柳川城の合戦でも大活躍したと言います。
今回は江戸時代の武士道バイブル『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』が伝える柳川七騎(やながわしちき)のエピソードを紹介。
果たして彼らは、どんな活躍を魅せてくれるのでしょうか。
作戦を無視して、退却命令も無視!偏屈な武辺者たち
時は慶長5年(1600年)、鍋島直茂は立花宗茂(たちばな むねしげ)の立て籠もる柳川城(現:福岡県柳川市)に攻めかかりました。
柳川城は柳川三年……攻め落とすには三年の歳月を要するとまで謳われた難攻不落の名城。なかなか攻略の糸口がつかめません。
「何とか城内から敵をおびき出すことはできないものか……」
一計を案じたのは、直茂の養子である鍋島茂里(なべしま しげさと)。
「堀に橋板を架けて少数の兵を進め、挑発するのはいかがでしょうか」
堀を渡って敵をおびき出し、堀のこっち側まで誘導してから反撃に転じれば、敵は後退しようにも堀に阻まれて進退窮まるでしょう。
「よし!それで行こう」