江戸時代に起きた28年越しの敵討ち。父を殺された4兄弟の復讐物語「亀山の仇討ち」【後編】

一之瀬 陽平

主君や身内を殺害された際、相手に対して復讐を決行する「仇討ち(敵討ち)」は、中世から近世の日本では慣例化していた。中には現代まで語り継がれる有名な仇討ち事件も多く存在する。

【前編】に続き、28年間という長い年月の末に仇討ちを完遂した兄弟の復讐物語「亀山の仇討ち事件」をご紹介する。

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江戸時代に起きた28年越しの敵討ち。父を殺された4兄弟の復讐物語「亀山の仇討ち」【前編】

主君や身内を殺害された際、相手に対して復讐を決行する「仇討ち(敵討ち)」は、中世から近世の日本では慣例化していた。中には現代まで語り継がれる有名な仇討ち事件も多く存在する。今回はそんな仇討ち事…

三男・源蔵と四男・半蔵の仇討旅

父親の右衛門が討たれた当時、源蔵と半蔵はまだ幼く、安芸国(現在の広島県周辺)の浅野家家臣の家に預けられていた。

1682年。14歳になった源蔵が仇討に出発。続いて1688年には四男の半蔵が兄を追って家を出た。

仇討の決行

一方の源五右衛門は、赤堀水之助と改名し伊勢国(現在の三重県周辺)亀山藩に仕官していた。

源蔵と半蔵の兄弟は、源五右衛門の居処を探り当て、自ら亀山藩士の家に奉公しながら仇討の機会を伺った。1698年には、江戸の奉行所から正式に仇討の許可を得ている。

1701年。源五右衛門(水之助)が任務を終えて下城するところを待ち構え、急襲。父と兄達の敵を討ち、本懐を遂げた。実に父親である右衛門の死から28年目の仇討達成であった。

後世の影響

源蔵と半蔵のその後は定かでないが、源蔵の墓は京都、討たれた源五右衛門の墓は亀山に現存するという。

本懐を遂げた亀山の仇討ちは当時の社会で評判となり、実際の事件を脚色した文芸作品や演劇作品が江戸期から昭和初期にかけて多く製作された。なお、実際の事件の内容に関しては、詳細を記した資料が複数発見されており、異説も存在する。

「赤穂事件」として有名な浅野内匠頭の刃傷事件は同年の3月に起こっており、源蔵と半蔵の仇討成功が、改易された赤穂浪士達の討ち入りにも影響をもたらしたとされる。

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