戦国史上最大の激戦、天下分け目の「関ヶ原の戦い」はわずか6時間で勝負がついた!?

湯本泰隆

1600年9月15日、豊臣秀吉死後の政権をめぐっての戦いが発生。日本全国の大名を徳川派の東軍と反徳川派の西軍に二分し、東西合わせて15万人以上もの大軍が激突しました。

のちの世に、「関ヶ原の戦い」といわれたこの戦は、戦国史上最大の激戦。その規模の大きさに、長期戦になることが予想されていました。

ところが蓋を開けてみれば、この合戦はわずか6時間ほどで決着がついてしまいました。

「天下分け目の戦い」と呼ばれた大決戦はなぜ、たったの半日で勝敗が決したのでしょうか。

当時、西軍の石田三成は、籠城策をとって東軍を迎え討つ作戦を探ろうとしていました。三成は籠城した西軍を包囲する東軍のさらに外側に籠城兵と後詰めの兵を置くことによって、東軍を挟み撃ちにしようと考えたのでした。

それに対し、家康は三成を籠城させないよう関ケ原におびき出す作戦にえました。家康は野戦が得意である一方、城攻めが苦手だったようです。何よりも、籠城されて長期戦になることを家康は恐れたようで、畿内に散らばっている西軍が集結する可能性があり、東軍は圧倒的不利な立場に追いやられるのだそうです。

家康の策謀に見事引っかかった三成は、関ケ原に布陣した末、わずか半日の戦闘で敗北してしまったのだとか。“当代一の策謀家”として知られる徳川家康の、完全な作戦勝ちでした。

しかも、当時の西軍の総大将は毛利輝元。250万石を持つ大大名です。ところが、毛利輝元は「関ヶ原の戦い」で、戦いに参加していません。それどころかさっさと降参して大坂城を東軍に引き渡してしまっています。このようなことから、毛利輝元は東軍の内通者だったのでは?なんていう説も存在しています。

そして、関ヶ原の戦いのさなか、西軍からは、戦い自体をリタイアする者や裏切りをなす者が続々と現れてしまいました。

このようなことも、西軍が大敗してしまう一因となったようです。

アクセス

関ヶ原古戦場
岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1202
関ケ原駅出口から徒歩約16分

参考:『図解 関ヶ原合戦』(2018 エイ出版社編集部)

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