中級貴族でありながら、その溢れる才能ゆえに異例の出世をし妬まれ、無実の罪を着せられ太宰府に左遷。衣食にも困る劣悪な生活を強いられ、無念の思いを抱えたまま亡くなった菅原道真。
亡くなった後、道真を陥れた貴族や天皇まで次々と謎の死を遂げ、都には天変地異が続きます。道真公の祟りだと恐れる都の人々。
しかしながら、菅原道真は「怨霊」から「学問の神」となり、千年以上の時を経てた今でも、全国の人々から厚い信仰を集めるようになったのです。
(ちなみに、トップ画像は、天拝山で身の潔白が明らかになるよう、激しい風にうたれながら祈祷する道真の姿。迫力が伝わってきます。)
前編の記事
怨霊と恐れられた菅原道真が「学問の神」へと神格化。人々に祀られるようになったわけ【前編】
乳母に道真からのお告げが
菅原道真の死後、道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)は、自分の家に小さな祠を設け、毎日拝んでいました。
そんなある日、同女の前に道真が現れ、「北野の右近の馬場(現在の北野天満宮)の地に祀って欲しい」とお告げをしたのです。
このことがきっかけとなり、天歴元年(947年)に北野天満宮が鎮座されることとなりました。
多治比文子は、北野天満宮の前身神社として「文子天満宮」(京都下京区)に祀られ、こちらも北野天満宮同様、受験の神様として全国の人々からの信仰を集めています。
怨霊から学問の神様となり信仰を集める
北野天満宮は、学問の家柄である菅原一族が管理、朝廷も「勅祭の社」と認め手厚く保護し、北野天満宮は繁栄しました。
そして、人々の間でも、学問の神・詩文の神として菅原道真の才能にあやかりたいと信仰が広がっていったのです。
道真を怨霊として恐れる気持ちよりも、才能に恵まれたゆえに卑劣な奸計に嵌められ、貧しい小屋で無念の死を遂げた、道真に対する敬慕の思いのほうが強かったのでしょう。
江戸に入ると、その思いはさらに広まり、当時の寺子屋には必ず学問の神・天神様の尊像が飾られたり、毎月25日の縁日には近所の天神さまにお参りするようになりました。
現在でも、京都の北野天満宮では、毎月25日の縁日「天神さんの日」や、2月の梅花祭ほか季節の行事には多くの人が訪れ、受験シーズンになると合格を願う学生たちで賑わいます。