近ごろ鎌倉の「縁結びスポット」として紹介され、良縁を願って多くの参拝客が訪れる葛原岡神社(※くずはらおかじんじゃ)。
(※)地元民の中には、筆者を含めて「くずはらがおか(神社)」と呼ぶことがありますが、神社によると正式には「が」は入れないそうです。どうも鎌倉では「扇ガ谷」「由比ガ浜」のように、地名などに「が」を入れたがる習性があるのかも知れません。
さて、ここの御祭神である日野俊基(ひの としもと)公は古くから開運の神様として信仰されてきましたが、縁結びにご利益があるという話は、地元民の間でも聞いたことがなく、気づいたらそうなっていた、という印象です。
そこでさっそく、久しぶりにお参りした機会に神職の方からお話を伺ってきました。
御祭神・日野俊基はいかにして「開運の神様」になったか
本題に入る前に、せっかくなので葛原岡神社の御祭神・日野俊基公について、その生涯をざっくり紹介したいと思います。
日野俊基公(生年不詳~元弘二1332年6月3日)は鎌倉時代末期、幕府の専横を正して後醍醐天皇(ごだいごてんのう。第96代、在位文保二1318年~延元四1339年)による御親政(ごしんせい。自ら政治を執られること)を実現するべく各地を奔走、献身的に活躍したものの、幕府に捕らわれて鎌倉の葛原岡(現:神社の境内)で処刑されてしまいます。
【辞世】古来一句 無生無死 万里雲尽 長江水清
【意訳】古来「生もなく死もない」という言葉がある。どこまでも雲のない空の下、長江の水が澄んで清らかであるように、やるべきことをすべて全力でやり尽くした私の心にもまた、一点の悔いはない。
【辞世】秋を待たで 葛原岡に 消ゆる身の
露のうらみや 世に残るらん【意訳】秋(とき=後醍醐天皇が新しい世を創る時)を待つことなくこの葛原岡に消える身ではあるが、なすべきことをなしたのだから、恨みなど露ほども世に残らだろうか(いや、残らない)。
後醍醐天皇がもたらす新しい世「建武の中興」を見ることなく終えた短い生涯でしたが、尊王討幕の先駆けとして天下の命運を切り拓いた強い意志と勇気が称賛され、明治政府が明治二十1887年に葛原岡神社を創建、開運の神様として祀られるようになったのでした。