織田信長の遺体はいったいどこへ消えてしまったのか?
1582(天正十)年6月2日、早朝。まだ夜が十分明けきっていない頃のこと。明智光秀率いる1万3000余の兵が本能寺を取り囲む。中には光秀が仕えたかの織田信長が眠っている。
謀叛を起こされた信長は、光秀軍の急襲によって周囲の者が次々と倒れていく中で行く末を悟ったのか、肘に鑓傷を負うと建物の奥深くに移り、納戸の入り口の戸を固く閉ざして割腹して果てました。
これは『信長公記』にて描かれた信長の最期ですが、信長の亡骸は光秀軍の必死の捜索にもかかわらず、ついに発見されませんでした。では、彼の遺体はいったいどこへ消えてしまったのでしょうか。
実は手掛かりといえる証拠がいくつか残されています。その一つといえるのが、静岡県藤宮市に建つ西山本門寺です。地元に伝わる話によると、ここの境内の本堂奥の大柊の根本に信長の首を埋めたとされているのです。
本能寺の変が発生する全日、本能寺では囲碁の対極が行われていました。そのうちの一人が本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)といい、彼は囲碁棋士であると同時に日蓮宗の僧侶でした。その算砂が原志摩守宗安に指示して本能寺から信長の首級を持ち出し、西山本門寺へと運び出させたといいます。
西山本門寺は日蓮の高弟である日興の法脈を継ぐ寺であることから算砂との結びつきも不自然なものではなくなるのです。