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鎌倉幕府滅亡のとき、なんと65回もの突撃を繰り返す激戦だった

鎌倉幕府滅亡のとき、なんと65回もの突撃を繰り返す激戦だった

一(1)味(3)さん(3)ざん(3)……の語呂合わせで覚えた方も多いと思いますが、元弘三(1333)年5月22日、新田義貞らの侵攻により、鎌倉幕府は滅亡しました。

学校の授業では(時間の都合もあるのか)随分あっさりと負けてしまったかのように駆け足で紹介され、意味も解らないまま「建武の新政」なる単語の暗記に移っていきましたが、実際の戦闘は、そんなにあっさりでもなかったようです。

新田義貞らによる鎌倉攻めは大きく三方面(極楽寺坂、化粧坂、巨福呂坂)から行われたと伝わりますが、今回はその一方面である巨福呂坂の戦いを紹介したいと思います。

死闘六十五回!赤橋守時の奮戦

 

巨福呂坂(現:鎌倉市山ノ内)を守る幕府側の大将は、得宗・北条氏の一門である執権・赤橋相模守守時(あかはし さがみのかみ もりとき)。

本来なら、こんな最前線に出るべき身分ではないのですが、去る5月に妹婿である足利高氏(後の尊氏)が幕府に叛旗を翻したせいで肩身が狭くなり、その疑いを晴らすため、決死の覚悟で臨んだと言われます。

果たして5月18日、攻め込んで来た新田軍の部将・堀口三郎貞満と大島讃岐守守之を相手に激戦を繰り広げ、『太平記』では一昼夜の間に65回もの突撃を敢行したと伝えています。いくら後がないとは言え、その激しい戦いぶりは、追い詰められた幕府軍の悲壮感、そして守時の凄絶な執念が伝わって来るようです。

ちなみに、守時らの奮戦を伝える石碑が、湘南モノレール線沿い(湘南町屋駅~湘南深沢駅間)に佇んでいます。

2ページ目 往時を今に伝える“泣塔”伝説

 

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