歌川国芳「化物忠臣蔵 大序」

増田 吉孝

出典:Wikipedia

(鶴岡兜改めの段)時に暦応元年二月下旬のことである。
将軍足利尊氏は南朝方の新田義貞を討ち滅ぼし、南北朝の動乱は収まりつつあった。鎌倉の鶴岡八幡宮では社殿の造替を済ませたので、尊氏の弟である左兵衛督直義が京から鎌倉へと下向し、今日は将軍尊氏の代参として鶴岡八幡へと参詣するところである。幕を張った馬場先にいる直義は大勢の供を従え、供の中には鎌倉在住の執事職高武蔵守師直、さらに直義の饗応役として桃井若狭之助安近と塩冶判官高定が任ぜられて控えている。

皆の前には唐櫃がひとつ置かれていた。直義には鶴岡代参のほかに、いまひとつ尊氏に命じられたことがあり、それは討取った新田義貞着用の兜を探しだし、これを鶴岡八幡宮の宝蔵に納めることであった。その兜というのが後醍醐天皇から下賜されたものであり、また義貞が清和源氏の血筋であるのを誉れとしたことによる。しかし義貞が死んだとき、そのそばには四十七もの兜が散らばってどれが義貞の兜なのか判らず、とりあえずそれらの兜を集め、この唐櫃にまとめて入れていたのである。この中から義貞がかぶったという兜を探し出し、鶴岡八幡に納めなければならない。

だが兜を納めようという直義に師直は「これは思ひ寄らざる御事」と口を挟み、清和源氏の血筋はいくらでもいる、そんな理由で義貞の兜をもったいぶって扱う必要はないという。これに桃井若狭之助が声をあげ、これは義貞軍の残党を懐柔し降参させようという将軍尊氏公の御計略であろう、「無用との御評議卒爾なり」と言おうとするのを師直はさえぎる。もしこの中から間違って義貞のものではない兜を選んでは後に大きな恥となることだ。「なま若輩ななりをしてお尋ねもなき評議、すっこんでお居やれ」と頭ごなしに怒鳴りつけた。これに目の色を変える若狭之助、それを察した塩冶判官が言葉を添え、直義の判断を仰ぐ。直義には兜の見極めについて考えがあった。かつて宮中に内侍として奉仕し、後醍醐天皇より義貞に兜が下賜されるのを目にしていたかほよ御前を、この場に呼び出したのである。かほよ御前は塩冶判官の妻である。かほよは唐櫃のなかからひとつの兜を取り出し、蘭奢待の香るこの兜こそ義貞着用のものに間違いないと差し出した。

見極められた兜を直ちに宝蔵に納めようと、直義は塩冶判官と若狭之助を連れて社殿に向かいその場を離れた。するとかほよの美貌に以前より執着していた師直がかほよに言寄り、付け文を無理やり渡そうとする。困惑するかほよ。そこへ折りよく来合わせた若狭之助にかほよは助けられたが、邪魔されて怒り心頭に発した師直は若狭之助を散々に口汚く罵り、これに怒った若狭之助は師直へ刃傷に及ぼうとする。しかし直義が帰館のため、判官も含めた供の者を従えて通りかかるので、若狭之助は無念ながらもこの場では自重するのだった。

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