徳川家康が築いた“幻の伏見幕府”!?将軍在位中、家康が本拠地を京都にしていた理由

徳川幕府の成立は、徳川家康が征夷大将軍となった慶長8年(1603年)。ここに疑いや異論を差しはさむ方は多くないでしょう。

幕府の本拠地が江戸であったことから、江戸幕府とも呼ばれていますね。

しかし実は、徳川幕府が必ずしも江戸幕府と言い切れないことについては、あまり意識されていません。

今回は徳川幕府が「伏見幕府」であった時期について紹介したいと思います。

「伏見幕府」が適切?

徳川家康が征夷大将軍となった慶長8年(1603年)時点で、家康の本拠地は伏見にありました。

関ヶ原の合戦で焼け落ちてしまった伏見城を再建し、そこを政治拠点としていたのです。

家康が征夷大将軍となり、嫡男の徳川秀忠に将軍位を譲った慶長10年(1605年)までの2年間、家康はその大半を伏見や京都で過ごしていました。

幕府の存続を将軍位とし、将軍の居所をもって地名を冠するならば、初代家康の時代についてだけは「伏見幕府」と呼んでも差し支えないのではないでしょうか。

もちろん2代目秀忠から15代徳川慶喜まで、幕府の存続期間中はずっと江戸が本拠地だったことから、江戸幕府と呼んだ方がしっくり来ますが……。

3ページ目 成立当初は未熟だった「幕府」

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