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死地へ向かう男の覚悟!命令と友情の狭間に立たされた戦国武将・相良義陽の苦渋の決断

死地へ向かう男の覚悟!命令と友情の狭間に立たされた戦国武将・相良義陽の苦渋の決断

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2025/06/09

今日の味方は明日の敵にもなり得る戦国時代。数多の戦国武将が味方や親族によって裏切りや謀略で命を落としていく中、友情に厚く義理堅い戦国武将もいました。

しかしながら、その友情の厚さが故に思わぬ結末になってしまった戦国武将も中にはいました。

相良義陽/Wikipediaより

その人物は九州地方で名を馳せた相良義陽(さがら-よしひ)です。今回は義陽の友情の厚さが招いた悲劇を紹介したいと思います。

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同盟を結んだのに島津家と対立へ

義陽は肥後国の大名、相良家の17代当主です。当主になった当初は叔父たちの反乱や家臣たちの内紛が起こり前途多難でしたが、それを乗り越え勢力拡大中であった島津家と同盟を結びました。

しかし、義陽は伊東氏との同盟を結んだことで島津家との同盟を破り、対立します。そして、島津家が天正6年(1578)に耳川の戦いで大友宗麟を破ると義陽のいる領地にまで進撃。

大友宗麟/Wikipediaより

勝てないと感じた義陽は天正9年(1581)に島津家に自身の息子を人質に差し出し降伏、島津義久に従属しました

命令か友情か、義陽決断の時!

降伏した義陽に義久は勢力拡大のため、義陽と同じ肥後国の戦国大名である阿蘇家の守る御船城を攻めることを命じます。しかし、御船城には義陽と親しい付き合いのあった阿蘇家の家臣、甲斐宗運(かい-そううん)がいました。

甲斐宗運/Wikipediaより

2人は相互不可侵の誓詞を交わした仲だったので、義陽は息子のために島津家に従うか宗運との誓詞を守るか苦渋の選択を迫られることになりました。

2ページ目 決断の末に義陽が選んだ運命…

 

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