
なぜ太平の世・江戸時代に“鉄砲バブル”が巻き起こった!?江戸後期の武器ビジネスの実態【後編】
商家が支えた軍事力
【前編】では、「太平の世」となり武器が不要になったはずの江戸時代・18世紀後期あたりから、急激に大坂の堺での鉄砲の受発注が増加したことについて説明しました。
【前編】の記事はこちら↓
なぜ太平の世・江戸時代に“鉄砲バブル”が巻き起こった!?江戸後期の武器ビジネスの実態【前編】
その理由は、ロシアの南下政策によって海防の意識が高まり、生産量が増えたためでした。
ここまでの内容を大まかにまとめると、以下のようになります。
①18世紀前期は幕府の軍縮の方針により鉄砲の生産量は年々減少
②中期は前期に生産された鉄砲の「修理」がメイン
③後期はロシアの南下で海防の意識が高まり、生産量が増加した
特に②③の事実は、前編でもご紹介した現存最古の鉄砲鍛冶屋敷・「井上関右衛門家住宅」で発見された新史料によって分かったことです。
これによって、日本史における江戸時代の全体的な鉄砲生産の推移が初めて掴めたと言えるでしょう。
鉄砲の具体的な数と種類で、近世日本の海防について検討できる点でも画期的な発見であり、当時の商業の実態から軍事史の解明にまでつながっていったのです。
ちなみに発見された文書群には、他の鉄砲鍛冶の取引先も記録されていました。
当時堺に約20あった鉄砲鍛冶が取引していた大名・旗本の武家数は1758年の計155件から、1842年は計239件と約1.5倍に増えていました。そのうち最多が井上家だったのです。
井上家が主に取引していたのは九州から東北にかけての武家で、堺の鉄砲鍛冶が全国の大名家の軍事力を支えていたことを証明していると言えるでしょう。
当時の鉄砲産業の活況がうかがえますね。
鉄砲鍛冶の新興勢力
これまでは、有名な堺の鉄砲鍛冶としては、大坂の陣で徳川方に貢献して特権を与えられた芝辻家や榎並家などが知られていました。
しかし井上家で見つかった古文書からは、新興勢力の同家がそうした家格の高い老舗を上回っており、商業分野における勢力交代が起きていたことが分かります。
このような形で新興勢力が台頭できた理由としては、高い「ビジネス力」が考えられます。