
女性関係にルーズな吉宗ゆえ?将軍・徳川吉宗の”落とし子”と称した男・天一坊の野望と哀れな末路
突然ですが、江戸幕府8代将軍にして中興の祖である徳川吉宗の御落胤(ごらくいん…正妻以外の女にひそかに生ませた子)を称した者がいたことはご存知でしたか。
名前は天一坊改行(てんいちぼう-かいぎょう)といい、当時はこの人物を巡って幕府が動かざるを得ない事態(天一坊事件)にまで発展したほどです。
そんな世間を騒がせた天一坊について今回はまとめてみました。
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母の死がきっかけで御落胤と称す
天一坊は永禄12年(1699)に紀州の田辺で生まれました。天一坊は母が和歌山城へ奉公に上がっていた時に吉宗に手を付けられ、実家で天一坊を産んだと聞かされていました。
その後は母と共に江戸へ移動し、母が町人と結ばれ何不自由ない生活を送っていました。しかし、14歳の時に母が亡くなったのを契機に天一坊は出家して山伏になります。
その頃から「自分は徳川吉宗の御落胤」と名乗るようになります。このような行動を取ったのは母から聞いた話と亡き伯父から「いつか幕府から使者が来るはずだ」と言われていたことがそうさせた原因でした。
御落胤効果でいつかは大名に!!
享保13年(1728)の頃になると天一坊は南品川宿で近いうちに大名になると言いふらします。そして、それを聞いた浪人たちが天一坊の元に集まり、仕官させるために金品を貰い受けることをしていました。
このことを不審に思った浪人、本多儀左衛門は行政や裁判などを取り仕切り、警察権も統括していた関東代官の伊奈忠逵(いな-ただみち)に報告します。
忠逵は天一坊を担いでいた者たちを尋問し、このことを上司の勘定奉行、稲生正武に報告します。
そして、天一坊のことを聞いた吉宗は「この者のことを知っている」と言ったので、忠逵は天一坊を慎重に調べることにしました。
吉宗は体が丈夫で豪快な性格だったので、将軍になる前に多くの女性と関係を持ったとしても不思議ではありませんでした。このことは幕府でも承知の上だったようです。