
戦国最強、実はこの男では!?首取りすぎて伝説多数、誉れ高き一兵卒「可児才蔵」の生き様
慶長5年(1600)に勃発した関ヶ原の戦い。決着は1日で決したものの、誰が一番の武功をあげたのか気になるものです。
それは、国持大名でも結構な碌をもらう武将でもなく、福島正則に仕えた一兵卒の身分であった可児才蔵(かにさいぞう [可児吉長 かによしなが])といってもいいでしょう。
しかし、可児才蔵と言われても誰?って思う方がほとんどかと思います。
ということで今回は、可児才蔵とは何者なのかを有名なエピソードを交えて紹介します。
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粋なパフォーマンスでついたあだ名は「笹の才蔵」
才蔵は天文23年(1554)に生まれます。はじめ才蔵は斎藤龍興に仕えますが、斎藤家の滅亡と共に織田家の家臣柴田勝家や明智光秀などに仕えます。
転々と主君を変えてきた才蔵は天正10年(1582)に起きた甲州征伐では森長可に仕え、16の首級をあげます。しかし、16も持つことは出来ないので3つだけ長可のもとへ持って行き、残りは口に笹を含ませ目印としました。
もちろん、3つしか持って来ていないので疑われるのですが、笹のことを伝えると長可は才蔵の武勇を褒めたたえました。才蔵はこのことをきっかけに「笹の才蔵」と呼ばれることになります。
ちなみに「ささ」という文字には笹と酒(さけのさを重ねた)の2つの意味が当てられます。
このことから笹を口に含んだということは酒を口に含んだという意味合いにもなり、最後の手向けとして酒を与えた才蔵は敵にも敬意を払っていたことがわかります。