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新選組は剣術以外にも刀を抜刀できない程の距離まで相手に攻められた時や刀を失った時に相手を倒せる柔術も教えていました。刀で斬り合うよりも地味な柔術ですが、剣術には剣術師範がいるように柔術にも柔術師範がいました。
そして、新選組の10個ある組の中には剣術ではなく柔術で組長になった人物もいました。その人物は柔術師範頭で4番組組長の松原忠司(まつばらちゅうじ)です。
今回は忠司に関するエピソードを紹介します。
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柔術の流派の開祖
播磨国小野藩(現在の兵庫県小野市)出身の忠司は安政4年(1856)に小野藩から退去命令が出てしまいます。理由ははっきりしておらず、退去後は大坂で過ごしていました。
大坂では船川楫之輔から学んだ柔術、天神真楊流(てんじんしんようりゅう)から派生した流派、北辰心要流(ほくしんしんようりゅう)を興し道場を開いていました。
門下生には新選組隊士で美男五人衆の一人、佐々木愛次郎がいたとされています。愛次郎は文久3年(1863)の新選組の前身である壬生浪士組結成を機に松平容保の要望で柔術を披露しています。
忠司もその時期に加入し、キャリアと技量から幹部に任命されます。同じ道場主の立場の近藤勇とは気が合っていたかもしれませんね。
呼び名は今弁慶
壬生浪士組が結成されて程なくして長州藩を筆頭とした攘夷派閥を京都から追放した八月十八日の政変が起こります。
忠司も壬生浪士組の一員としてこの事件に出動します。その時のいで立ちが坊主頭に白い鉢巻きで大薙刀を構えていたので「今弁慶」と呼ばれていました。
このような格好しているので見た目的に怖そうなイメージがあると思いますが、「親切者は山南と松原」の言葉が残っているくらい温厚な性格でした。
八月十八日の政変の際に山南敬助が自分の鎧がないことに対して怒っている時に忠司が宥めたという話があるくらい非常に温厚な人物でした。
その後の元治元年(1864)の池田屋事件では土方歳三の隊に所属し武功を挙げました。続く禁門の変では天王山に潜伏する長州勢の追討を行うため、天王山攻略に随行しました。
数々の戦いで実力を見せた忠司は慶応元年(1865)3月の西本願寺移転による隊編成で4番隊組長と柔術師範頭に任命されました。