
実は勘違いによる暴走!?江戸時代「大塩平八郎の乱」は正義どころか民衆にとって大迷惑の災害だった【後編】
【前編】では大塩平八郎の蜂起とその背景について説明しました。
実は勘違いによる暴走!?江戸時代「大塩平八郎の乱」は正義どころか民衆にとって大迷惑の災害だった【前編】
本稿では、有名な「大塩平八郎の乱」について前編・後編に分けて説明します。この乱はかねてより、庶民のためを思って大塩平八郎が起こした「義挙」つまり、平たく言えば「正義の乱」だという見方が一般的で…
【後編】では、この「大塩平八郎の乱」はどのような影響を及ぼしたのか、またそれに対する後世の評価はどのように変わっていったを見ていきましょう。
乱による被害の規模
多くの死傷者を出したものの、後に「義挙」とされたこの乱ですが、そうした評価の陰に隠れて見失われがちなのが、その被害の凄まじさです。
まず、そもそもの大飢饉のさなかにあった当時の世相ですが、『浮世の有様』という史料によると「町なかを歩けば必ず餓死者を見るし、道頓堀や日本橋、難波新地あたりには死骸が山と積まれて、犬に喰われている。昼夜とも物もらいの哀れな声が市中にあふれ、乞食が乞食を襲うほどだ。(中略) 婦子を抱いて川に投身する者も少なくない」というほどの惨状だったそうです。
そうした状況を打破するために大塩平八郎一派は蜂起したわけですが、彼らの放った火は3日間燃え続け、大坂市中の5分の1にあたる1万8000軒余が焼失しました。
さらに、当時の大坂の人口約36万人のうち約7万人が焼け出され、少なくとも270人が焼死したとされます。
乱後には疫病も流行し、別の文献には「六月中、千日の墓所にて毎日五、六十人を焼き」とも記されています。
それに加えて、大塩らは率先して富商の屋敷に火を付けたため、乱後の大坂では米価が高騰し、前年の倍近くになったのです。
庶民にとっては踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目という状況だったはずです。
一体、この人たちは何がしたかったんだと思わず突っ込みたくなりますね。