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実は勘違いによる暴走!?江戸時代「大塩平八郎の乱」は正義どころか民衆にとって大迷惑の災害だった【前編】

実は勘違いによる暴走!?江戸時代「大塩平八郎の乱」は正義どころか民衆にとって大迷惑の災害だった【前編】

本稿では、有名な「大塩平八郎の乱」について前編・後編に分けて説明します。

この乱はかねてより、庶民のためを思って大塩平八郎が起こした「義挙」つまり、平たく言えば「正義の乱」だという見方が一般的でした。しかし最近はそうした見方が覆りつつあります。

天保の大飢饉という過酷な時代に起きたこの事件ですが、最新の研究で新たな見方が浮上しているのです。

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大塩の蜂起とその動機

まずはことの経緯を見ていきましょう。江戸後期の天保の大飢饉のさなか、大坂町奉行所の元役人である大塩平八郎は、天保8年(1837年)2月に窮民の救済や幕政の転換を掲げて大坂で武装蜂起します。

彼は門弟らと富商宅を焼き、市中に火を放って進軍しました。

こうして後世に「大塩平八郎の乱」として呼ばれることになった騒動は、一般に「義挙」とされてきました。

しかし最新の研究では、大塩が批判した米不足対策について、町奉行はきちんと対応していたとされています。それどころか、大塩が掲げていた蜂起の理由は虚偽だったとの説も出ているのです。

その、蜂起の理由とはなんだったのでしょうか。

東日本を中心とした天保の大飢饉が発生した際は、大坂でも餓死者が相次ぎました。それなのに大坂の富商らは米を買い占めて暴利を得、町奉行所は幕府の指示で大坂の米を江戸に送っていたと言われています。

大塩は、こうした状況について「町奉行が大坂を見捨てた」と考えて、義憤をおぼえて蜂起したのです。

2ページ目 町奉行の飢饉対策、大塩の疑惑と矛盾

 

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