戦国武将の生首「首級」は取り扱い注意!ランク低ければ捨てられ、死に際の形相は化粧でごまかされていた
なぜ「首を取った」のか
戦国時代の武士は、倒した敵方の兵の首を切断して持ち帰るのが常でした。当時の合戦は、首の取り合いでもあったと言えるでしょう。
※関連記事:
戦国武将は縁起が大事!武士道バイブル『葉隠』が教える”首級”の取り扱い方法
それにしても、いくら敵とはいえ首を切断して持ち帰るというのは酸鼻を極めていますし、手間だってかかります。なぜわざわざそんなことをする必要があったのでしょうか?
その理由はごくシンプルです。戦国武士が敵方の首を必要としたのは、それが自分の活躍を示す最大の証拠だったからです。
いくら口頭で「相手の侍大将を倒した」と申し立てても、証拠がなければ信用はされません。恩賞にありつくには、相手方の首が必要だったのです。
これは、中国の影響とも考えられています。例えば、古代中国の秦では敵の首一つで位が一級上がるシステムがありました。
それが「首級」という言葉の由来でもあります。この首取りによる昇進の仕組みが日本にも伝わったのではないかということです。
首級のランクあれこれ
また、人間の首に対する信仰めいた感情もあったのでしょう。
首には人の霊魂が宿るという考え方がありました。その首を持ち帰ることは、敵の霊魂を味方に加えるという意味もあったのかも知れません。
霊魂の数が多ければ多いほど、味方の領土の豊作が約束されるとも考えられていたようです。
ところで、合戦で切断される首にはランクがありました。最もランクが高いのは相手方の大将クラスの首。次いで、武勇の高い武者の首や、母衣を着た母衣武者の首などが大きな手柄の証となったようです。
また、その合戦で最初にあげた一番首も高く評価されました。ただし、ある程度身分のある武士を倒したときに限られていました。
一方、下級武士や雑兵の首はあまり評価されなかったようです。身分の低い武士は歯にお歯黒をつけていないので白歯武者といい、歯の色によってランクの低い首級はひと目で識別できました。
また、味方の勝利が決まったあと、逃げる敵からあげた首は追い首といって評価されていませんでした。
武士によっては、恩賞の対象にならないからと取った首を捨てる者もいたようです。反対に、首を一つも取れなかった武士は捨てられた首を拾って体裁をつくろうこともあったとか。
捨てる首あれば拾う首あり、といったところでしょうか。