手洗いをしっかりしよう!Japaaan

大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 【三河一向一揆】家康のダジャレ?7×9=63で七九郎と改名した柴田重政の武勇伝【どうする家康】

【三河一向一揆】家康のダジャレ?7×9=63で七九郎と改名した柴田重政の武勇伝【どうする家康】

武士は名をこそ惜しむべし……戦さにおいて大切なのは、実際に武功を立てることはもちろん、それを周囲に認めさせるアピールでした。

いくら頑張って(時には傷まで負って)敵を倒しても、その首級を仲間に奪われてしまったら、手柄は認められません。

だからみんな、いかに自分の武功をアピールするかに苦心し、創意工夫を凝らしたものでした。

今回はそんな一人、徳川家康(演:松本潤)に奉公した柴田重政(しばた しげまさ。孫七郎)のエピソードを紹介。果たして彼は、どんな武功を立てたのでしょうか。

射倒した敵は63人

時は永禄7年(1564年)1月11日。昨年から続く三河一向一揆において、柴田重政は自慢の弓で次々と敵を射殺しました。

この時、重政は自分の武功をアピールするため、矢の一筋々々に自分の名前を彫ったと言います。

柴田孫七郎。その矢をもって数十人を仕留め、あまりの腕前に一向門徒らは恐れをなしたそうです。

「まったく、敵ながら大したヤツだ……いったい何人餌食になったか、見当もつかぬ」

「矢に名前が彫ってあったから、一つ数えてみようかね」

誰が言い出したか、物好きが遺体から抜き集めたところ、重政の射放った矢は実に六十三筋。どれも柴田孫七郎と彫ってあります。

「いやはや、柴田の精兵(せいひょう)ぶりもさることながら、よくまぁ彫ったものだ。せっかくだから、まとめて送り返してやろう」

というわけで矢の束が徳川の陣中へ送り返されました。激しい戦さの最中だと言うのに、何とも牧歌的な時代ですね。

2ページ目 家康は感心するやら呆れるやら……

 

RELATED 関連する記事