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大河ドラマ「どうする家康」史実をもとにライター角田晶生が振り返る 大河ドラマでは割愛されたけど…今川義元も感激した松平元康の見事な初陣がコチラ【どうする家康】

大河ドラマでは割愛されたけど…今川義元も感激した松平元康の見事な初陣がコチラ【どうする家康】

NHK大河ドラマ「どうする家康」、皆さんも観ていますか?筆者も毎週楽しみにしています。

さて、いまだ白兎(信長評)な松平元康(演:松本潤)ですが、実際にあんな感じだったのでしょうか。性格については解釈が分かれるものの、戦ぶりについては多くの武将たちが感歎するほどの達者でした。

今回は江戸幕府の公式記録『徳川実紀』より、元康17歳の初陣エピソードを振り返り。通好みなその采配ぶりは、かの「海道一の弓取り」今川義元(演:野村萬斎)さえ感動させたそうです。

最小限のコストで、最大限の戦果を。シンプルゆえに難しい決断

……   君ふたヽび義元のゆるしを得たまひ三州にわたらせられ。鈴木日向守重教が寺部の城をせめ給ふ。これ御歳十七にて御初陣なり。この軍中にて   君古老の諸将をめされ御指揮ありしは。敵この一城にかぎるべからず。所々の敵城よりもし後詰せばゆヽしき大事なるべし。先枝葉を伐取て後本根を斷べしとて城下を放火し引とり給ふ。酒井雅楽助正親石川安芸守清兼などいへるつはものどもこれを聞て。吾々戦場に年をふるといへども。これほどまでの遠慮はなきものを。若大将の初陣よりかヽる御心付せたまふ事。行々いかなる名将にかならせたまふらんと落涙してぞ感じける。又義元も初陣の御ふるまひを感じて。御舊領のうち山中三百貫の地をかへしまいらせ腰刀をまいらせたり……

※『東照宮御實紀 巻二 弘治三年-永禄二年』元康初陣より

【意訳】元康は義元の許可を得て再び三河国へ赴き、17歳で初陣を果たした。織田方の鈴木日向守重教(すずき ひゅうがのかみしげのり)が立て籠もる寺部城を攻めた際、軍議の場で曰く

「敵はこの寺部城だけではない。我らが前にのみ気をとられて、周囲の城から敵が後詰(※)にくれば、たちまち窮地に陥るだろう。そこで今回は枝葉を伐採し、後で根幹を倒す手がかりとするに留めよう」

(※)ごづめ。城を攻めている敵を背後から攻撃する(後ろから詰める)こと。またはそのための援軍。基本的に籠城戦は外部からの援軍(後詰)が来るまで持ちこたえ、城の内外より挟み撃ちするのが防御側のセオリー。

とのことで、寺部城下に火を放って引き揚げていった。この采配に酒井雅楽助正親(さかい うたのすけまさちか。酒井忠次の父)と石川安芸守清兼(いしかわ あきのかみきよかね。石川数正の祖父)は感激。

「我々は永年戦さに出てきたが、こんなに思慮深い若大将を見たことがない。これは後にどれほどの名将となられようか」

義元もこの報告を受けて大層感激。恩賞として松平家の旧領であった山中300貫(※)の知行を返還し、腰刀(太刀)を与えたのであった。

(※)銭300貫相当の年収が見込まれる土地。1貫は1,000文、1文≒100~120円の場合、約3,000~3,200万円の年収。ただし具体的な収穫量については土地によって差があるため厳密な面積は不明。

……ざっと以上ですが、これを読んで「うわっ…元康の初陣、地味すぎ…?」と思われた方がいるかも知れません。別に寺部城を攻略できてもいないのに、なぜそんなに感激するのか、などなど。

2ページ目 目の前の敵を倒すことばかりに気が向いてしまうもの

 

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