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奇襲ではなく最適解だった!?「桶狭間の戦い」で織田信長が採用した王道の戦略

奇襲ではなく最適解だった!?「桶狭間の戦い」で織田信長が採用した王道の戦略

大きな兵力差

織田信長が今川義元を討ち取った、有名な「桶狭間の戦い」。この戦いは、具体的にどのような点が優れていたのでしょうか。

ぼんやりとしたイメージでは、信長は、誰もが思いも寄らない奇襲戦略で勝利を収めたように思われています。しかし細かく見ていくと、実は彼は兵法の古典に忠実な、基本にのっとった戦い方をしたのが分かるのです。

当初、桶狭間の戦いは今川軍の勝利が確実と見られていました。今川郡と織田軍にはとても大きな兵力差があったからです。

1560年5月、今川軍は約4万、もしくは2万5千ほどとみられる大軍を率いて尾張に攻め込みました。織田信長率いる織田軍は、わずか5千の軍でその大軍に立ち向かうことになります。

今川軍の当時18歳だった松平元康(のちの徳川家康)はさっそく大高城を織田攻めの本拠地とすべく、義元より先に入城。大高城を囲む要所である鷲津砦と丸根砦を攻略しました。

信長の動向

さて肝心の信長ですが、彼は今川軍が攻めてくることを知ってなお軍議の一つも開かず、部下たちを悶々とさせていたといいます。

しかしこれは奇襲をする際に情報が洩れていては失敗に終わってしまうため、織田軍に今川と通じている者が紛れ込んでいる可能性を考えてわざと黙っていたとも考えられています。

そんな信長ですが、鷲津砦と丸根砦が攻撃を受けている報を受け出陣を決意し、清洲城を出発。熱田神宮に寄って戦の勝利を祈願するなど、軍を鼓舞しました。

またこの時「織田軍は熱田方面に軍を展開している」と今川軍に誤認させるべく、熱田の住民たちに白い布で旗指しものを立てさせたといいます。

必ず義元も大高城にやってくると考えた信長は、孫子の兵法書にある「不動如山(動かざること山の如し)」のように、じっと義元の到着を待ちました。

ちょうどその頃、当初沓掛城に本営を構えていた義元は大高城に移ることを決めます。

移動中、元康をはじめとする三河衆や駿河衆の強力な軍による複数の砦での戦勝報告を受けた義元は、道中で小休止を取るよう命じました。

そして、その今川軍が陣を敷いて休息をとっていた場所こそが桶狭間でした。

2ページ目 兵法にかなった戦略

 

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