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平清盛の権力を頂点まで引き上げた陰謀事件「鹿ヶ谷の陰謀」とは?【前編】

平清盛の権力を頂点まで引き上げた陰謀事件「鹿ヶ谷の陰謀」とは?【前編】

上皇、平家、朝廷、寺院の四つ巴

6月になりましたね。平清盛の政争の1つとして有名な、「鹿ケ谷の陰謀」という事件があります。実はこれが発生したのがちょうど1177年の6月1日でした。この内容を前編と後編に分けて辿っていきます。

後白河上皇など、当時の平氏に反発していた人たちが不穏な動きをしていたのを、平清盛が武力により排除した事件です。

平清盛と後白河上皇の政治的な対立の裏には、この時代に強い権力を保持していた寺院の存在がありました。

特に、天台宗の比叡山延暦寺の勢力は強大でした。彼らは僧兵たちによる強大な軍事力を背景に、神や仏の名を掲げて、朝廷に無理難題の要求を突きつける強訴をしばしば行っていました。

神や仏教を深く信じていた朝廷の人々は、それに逆らえない状況でした。

当時、同じ天台宗内でも延暦寺と園城寺が対立関係にあり、後白河法皇は朝廷に敵対的な延暦寺を嫌い園城寺側についていました。

一方、平家は清盛が出家した際に延暦寺に世話になっていた縁もあり、延暦寺と友好な関係を保っていました。

さらに、朝廷内でも後白河上皇は院の近臣を、清盛は平家一門を、それぞれ朝廷の要職に就けようとして主導権争いをしていました。

しかし、高倉天皇の母であり清盛の義理の妹である平滋子が巧みに後白河上皇と清盛の仲介役となり、表面上は良好な関係を保っていたのです。

滋子は、その美貌が後白河上皇の目に止まり高倉天皇を授かりましたが、肝が据わったとても賢い女性でもあり、絶妙な調整能力を発揮していました。そのおかげで、後白河上皇と清盛の間の関係は上手く調整されていたのです。

2ページ目 寺を焼いたことが発端

 

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