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【鎌倉殿の13人】源頼朝と大庭景親が再度の激闘…「六本松古戦場」を訪ねてみた

【鎌倉殿の13人】源頼朝と大庭景親が再度の激闘…「六本松古戦場」を訪ねてみた

時は平安末期の治承4年(1180年)8月、伊豆国蛭島(現:静岡県)で反平氏の兵を挙げた源頼朝(みなもとの よりとも)公。

一度は石橋山の戦い(現:神奈川県小田原市)で大庭景親(おおばの かげちか)に敗れた頼朝公でしたが、紆余曲折を経て捲土重来を果たしました。

「いざ、父祖伝来の鎌倉入りぞ!」

一方の大庭景親は、坂東一円の武士団を結集して鎌倉へ乗り込もうとする頼朝公を阻むべく、その進路に立ちふさがります。

「ヤツらを通すな!絶対ここで食い止めよ!」

かくして両雄は、六本松の地で激闘を繰り広げたのでした……。

戦いは鎌倉入りの前?後?

その舞台と伝わるのが、六本松古戦場(ろっぽんまつ。神奈川県藤沢市)。

藤沢駅から徒歩15分ほどに位置する現地にはお地蔵様や石塔、石碑などが立ち並び、案内板にはこのように書かれています。

「史跡の由来
六本松古戦場
此の所は治承四年伊豆に旗上げした頼朝が鎌倉へ討ち入りの折り大庭三郎影親(原文ママ)の軍勢と一進一退の決戦を交え敵味方共に多数の勇士が討ち死にされました。此の所の住民はねんごろに供養したのが六本松の塚である。
玉垣に緑したたる六本の松は其の昔を語り供養の香華はその御霊をなぐさめていた。時うつりて塚の姿もいつしか消え消失しようとした。藤沢市関係者の計らいで再び旧姿を取り戻すことが出来た。
心ある方の供養をのぞみます。
湘南通り一丁目町内会
六本松史跡保存会」

伝承によると、この一帯で鎌倉へ入ろうとした頼朝公と、大庭景親が戦ったそうです。

石橋山から脱出した頼朝公は相模湾から房総半島へ渡り、東京湾をぐるりと回りこんで鎌倉へやってきました。

鎌倉へ北から入る場合、わざわざ西側の藤沢へ回り込む必要はないはずですが、もしかしたら鎌倉の北側は敵の守りが堅く、攻めあぐねた頼朝公は西側から回りこもうとしたのかも知れません。

しかし、そうした記述は鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)』になく、多数の勇士が討死したほどの戦さであれば、記録がないのは不自然です。

とは言ってもすべてがフィクションで、この場所で何も起こっていなかったとしたら、供養塔まで建てて弔うのはやはり不自然と言うもので、頼朝公が鎌倉入りする時期の前後に、ここで何かしらの戦闘が行われた可能性もあります。

2ページ目 六本松古戦場の真相は?

 

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