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日本最古級の色街「木辻遊郭跡」をならまち(奈良市)で見つけた!旅で見つけた隠れ歴史スポット【後編】

日本最古級の色街「木辻遊郭跡」をならまち(奈良市)で見つけた!旅で見つけた隠れ歴史スポット【後編】

旅や歴史についての執筆が多い筆者が、取材などの途中で見つけた隠れた歴史スポットを紹介します。

奈良市の旧市街・奈良町(ならまち)[※以下ならまち]は、太平洋戦争の戦火を免れたため、江戸時代そのままの町家と生活風景を残す貴重な町。その一画に存在した「木辻遊郭」は、日本最古級とされる色街です。今回は、遊郭の歴史を紐解きながら木辻遊郭跡を紹介します。

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日本最古級の色街「木辻遊郭跡」をならまち(奈良市)で見つけた!旅で見つけた隠れ歴史スポット【前編】

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【後編】で、木辻遊郭跡と関連する旧跡をめぐります。この記事が、少しでも皆さんの歴史探訪の旅の参考になれば幸いです。

木辻遊郭の歴史を振り返る

 

元興寺の造営が起源となったと考えられる木辻遊郭ですが、本格的な遊郭として発展するのは江戸時代初期の慶長・寛永年間(1600年前後)とされています。

それは、関ケ原の合戦の後、豊臣家の元家臣が堀氏の養子となり奈良に移住し、幕府の許しを得て、1629(寛永6)年に傾城街をつくったのが近世木辻遊郭のはじめとされるのです。

奈良は都が京都に移ると、寺院や神社を除き、多くの場所が田畑に帰してゆきます。ならまちも元興寺旧境内を中心に商家があったものの、有力な商工業都市としての町が形成されるのは、この頃からと考えられます。

当時のならまちは、大部分を田畑が占める田舎で、寛永年間を迎えて今見られるような立派な町家が建ち並ぶような景観に変化していったのです。木辻遊郭もならまちの発展とともに、歩んだのではないでしょうか。

1657(明暦3)年に江戸に公許の遊郭である新吉原が開かれるにあたり、木辻遊郭から湯女として遊女(銭湯で垢すりなどをする女性で、後に売春も行った)を移動させたとあることから、この頃にはすでに遊郭として繁盛していたことがうかがえます。

元禄文化を代表する浮世草子で井原西鶴が著した『好色一代男』には、

爰こそ名にふれし木辻町、北は鴨川と申して、おそらくよねの風俗都にはぢぬ撥音、竹隔子の内に面影見ずにはかへらまじ

とその繁盛ぶりが記されています。また、木辻遊郭は歌舞伎にも登場するなど、全国的に有名な色街であったことがうかがえます。

こうした繁栄は幕末の天保の改革で衰えるものの、明治に入り復活。その頃の木辻には数10軒の遊郭があり、娼妓も200人近くいたようです。

大正から昭和を経て繁栄を続けるも、売春防止法による1958(昭和33)年の赤線廃止によりその歴史に幕を閉じ、その多くが旅館などに鞍替えしたものと推測されます。

2ページ目 街中に今も残る遊郭の面影

 

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