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返答は庭への放尿!せっかくの出世を断った「賤ヶ岳の七本槍」平野長泰かく語りき

返答は庭への放尿!せっかくの出世を断った「賤ヶ岳の七本槍」平野長泰かく語りき

本能寺の変(天正10・1582年)で横死した織田信長(おだ のぶなが)の覇業を継ぐべく、重臣の羽柴秀吉(はしば ひでよし)と柴田勝家(しばた かついえ)が争った賤ヶ岳の合戦(天正11・1583年)。

ここで先陣を切った秀吉子飼いの精鋭で、後世「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけ しちほんやり)」と称えられた勇士の一人・平野長泰(ひらの ながやす。権平)ですが、彼は同僚6名と異なり、生涯を通して大名(一万石以上の石高)になることはありませんでした。

しかし、そんな長泰も決して出世の機会がなかった訳ではなく、あえて好条件を蹴ってしまったこともあるようです。

今回は武士道のバイブルとも言われる『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』より、平野長泰の痛快?なエピソードを紹介したいと思います。

お前の家臣などまっぴら御免!平野長泰、庭へ放尿

平野長泰は賤ヶ岳の武功によって秀吉から河内国(現:大阪府南東部)に3千石の知行を与えられ、その後、徳川家康(とくがわ いえやす)と激突した小牧・長久手の合戦(天正12・1584年)でも武功を立てて大和国(現:奈良県)の領地を加増され、計5千石の領主となりました。

この時点で長泰は26歳(永禄2・1559年生まれ)ですから、秀吉から可愛がられていたこともあって順調な滑り出しと言えますが、残念ながら石高的にはここが人生のピーク。

それ以降はずっと5千石のまま、秀吉の死後はかつてライバルであった家康に従い、そのまま旗本として徳川秀忠(ひでただ)・徳川家光(いえみつ)と3代にわたって仕え、寛永5年(1628年)に70歳の生涯に幕を下ろしたのでした。

今回のエピソードは、長泰が家康の旗本となっていた時代のこと。ある日、細川忠興(ほそかわ ただおき)に招かれると、こんなことを言われました。

「権平殿はこの日本(ひのもと)に隠れなき武勇の士でありながら、たった5千石とはもったいない。もし当家に仕官されるのであれば、領地の半分を差し上げよう

【原文】
「権平殿の武篇は日本に隠れもなき事にて候。斯様の大勇士を唯今の通りの小身にて召し置かれ候儀、残念にて候。さこそ御不如意にこれあるべく候。我等家中になど御成り候はゞ、領知半分は遣し申すべき」

この領地の半分とは、文字通りに受け取ると細川家のおよそ40万石(当時)の内20万石ということになりますが、長泰一人にそれだけやってしまったら、家中に困窮と不和を招いてしまうでしょう。

となると、考えられるのは「現在、長泰が持っている石高の半分」つまり5千石×50%=2,500石ばかり加増してやろう、ということでしょうか。現実的ではありますが、一気に夢がしぼんでしまった印象です。

2ページ目 随分と見くびられたものだ……

 

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