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7基の台場は今どこに?幕末、江戸防衛のために建設された海上要塞「品川台場」の過去と今

7基の台場は今どこに?幕末、江戸防衛のために建設された海上要塞「品川台場」の過去と今

東京湾にぽつんと浮かぶ2つ島。もとは江戸幕府が黒船来航後に建設した7つの海上要塞(通称「品川台場」)で、現在はそのうちの2つが残っている。

急ピッチで建設が進められた台場だが、結局一度も砲台としての役目を果たすことなく、姿を消していった。

江戸を守るための海上要塞 品川台場とは

嘉永6年(1853)、マシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊の艦船四隻が浦賀沖に来航した。真っ黒く大きなその船には外輪が付き、煙突からはもくもくと煙が上がっていた。

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幕府は外国船から江戸を守るための海上砲台を沿岸防衛に精通していた伊豆韮山代官の江川英龍に建設させた。

建設には八ツ山や御殿山などの付近の山を切り崩した土砂が利用され、歌川広重の『江戸名所百景 品川御殿やま』には、台場建設のために切り崩された山肌が描かれている。

当初は11基の台場を建設する計画だったが、第一から第六台場と陸続きの御殿山下台場の計7基の台場を完成させて建設工事は終了した(第七台場は未完成)。

現代に換算すると約20億~30億円かけて建設された品川台場だったが、結局一度も使われることなく日本は開国。品川台場はその役目を終えることとなる。

2ページ目 7基の台場はどこへ?品川台場の今

 

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