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不仲夫婦? 10年間の別居婚生活を経験した徳川慶喜と一条美賀子の夫婦生活【前編】

不仲夫婦? 10年間の別居婚生活を経験した徳川慶喜と一条美賀子の夫婦生活【前編】

徳川幕府最後の将軍となった「徳川慶喜(とくがわよしのぶ)」と、正室「一条美賀子(いちじょうみかこ)」の夫婦関係には不仲説が囁かれている。

今回は幕末の動乱下に結婚した徳川慶喜と美賀子夫婦の関係性をご紹介する。

夫・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

1837年。水戸藩第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれる。1847年には一橋徳川家を相続し徳川慶喜と名乗った。

1853年に一条美賀子と婚約。55年に結婚。

その後は時の大老・井伊直弼と対立し謹慎生活を送るが、1860年に井伊が暗殺されると謹慎が解除され「将軍後見職」となって幕政の表舞台に復帰。

1866年12月。二条城で将軍宣下を受け、徳川幕府15代将軍に就任した。

大政奉還後に新政府軍との間で勃発した戊辰戦争では、江戸城を無血開城し慶喜自身は駿河で謹慎の身となる。

1897年には再び東京に戻り、貴族院議員などを歴任。

妻・一条美賀子(いちじょうみかこ)

1835年。実父は今出川公久(いまでがわきんひさ)、養父は一条忠香(いちじょうただか)。どちらも公卿(国政機関で政治を担う最高位の職)であった。

1853年に徳川慶喜と婚約。55年に結婚。

1860年以降、井伊直弼による慶喜の謹慎が解かれると共に別居。

1866年。慶喜が徳川15代将軍となるも、慶喜は京都に在京中であり、将軍の正室でありながら大奥入りすることはなかった。

1869年。静岡の地で慶喜と同居。

代役としての結婚

本来、慶喜は公卿・一条忠香の養女・輝子(千代君)と婚約していたが、輝子が疱瘡(天然痘)に罹患したことから婚約が流れた経緯がある。

婚約相手がいなくなった慶喜には、同じく一条忠香の養女であり、輝子の養姉にあたる美賀子が急遽代役として立てられ、慶喜と婚約することになった。

【後編】では、2人の関係性や結婚生活についてご紹介する。

 

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