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戦国時代、武将たちが名乗った「弾正」は京都洛中の風紀委員だった?

戦国時代、武将たちが名乗った「弾正」は京都洛中の風紀委員だった?

戦国武将が好きな方なら、一度ならず見聞きしたことがあろう「弾正(だんじょう)」という言葉。

信長の父・織田弾正信秀(おだ のぶひで)、信玄の家臣・高坂弾正昌信(こうさか まさのぶ)、足利将軍を暗殺した松永弾正久秀(まつなが ひさひで)……。

さて、この弾正とは官職で、何だかカッコいい響きですが、いったいどんな職務だったの?と訊かれると、即答出来る方は少なそうです。

京都洛中の「風紀委員」的存在だった弾正台

弾正とは律令制度において制定された弾正台(~だい)の略称で、弾の文字は正と同じく「ただす」意味があり、京都洛中の風俗を取り締まる役職でした。現代で言えば、学校の風紀委員みたいなものでしょうか。

具体的には左大臣以下の非違を摘発し、天皇陛下に奏聞(そうもん。申し上げること)する権限を持っていましたが、検断権(けんだん。警察権&裁判権)は持っていませんでした。

そのため、いざ非違を見つけても天皇陛下に申し上げるだけで、当事者たちに手出しは出来ず、まさに「先生に言いつけるぞ!」という状態。やっぱり風紀委員程度の存在みたいです。

やがて嵯峨天皇(第52代。在位:大同4・809年~弘仁14・823年)の時代に検非違使(けびいし)が創設されると、非違に対する摘発・奏聞の権限を奪われ、形骸化してしまうのでした。

2ページ目 よく叙任される「弾正弼」、よく自称される「弾正忠」

 

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