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関ヶ原に散った「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちのそれから【後編】

関ヶ原に散った「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちのそれから【後編】

次女 小石殿

生年月日不明。陸奥会津藩、蒲生家の家臣「岡重政」の元に嫁ぐ。関ヶ原の前には婚姻関係にあったと考えられている。

重政が会津藩家中で起こった蒲生騒動によって死罪になると、小石殿は子供を連れて会津を離れ若狭国(福井県)へ移り住みその地で亡くなった。子供は複数いたとされ、そのうちの一人「岡吉右衛門」の娘は徳川家光の側室となった。

三女 辰姫

生まれは1598年頃と考えられている。1610年頃に弘前藩主・「津軽信枚(つがるのぶひら)」へ正室となる。詳しい経緯はわかっていないが、豊臣秀吉の正室であり辰姫の養母であった「北政所」の尽力があったと考えられている。

その後、徳川家から輿入れした満天姫によって側室に降格。上野国(群馬)大舘に移され「大舘御前(おおたちごぜん)」と名乗った。1623年に大舘で死去。信枚との関係は良好だったようで、1619年に生まれた長男平蔵は後に「津軽信義」として陸奥国弘前藩3代藩主となった。

敗戦の将としてのイメージが強い三成だが、正室との間に生まれた6子は子孫を繋ぎ現在でも血筋は続いている。また三成には側室との間にも子供がいたとされるが実証を証明できる資料はない。

 

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