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戦国時代の天下人・豊臣秀吉を支えた5人の大名「五大老」たちの明暗【後編】

戦国時代の天下人・豊臣秀吉を支えた5人の大名「五大老」たちの明暗【後編】

豊臣秀吉政権下で政務の中心をになった「五大老」は、秀吉亡き後、大名同士の権力争いと共に瓦解した。五大老に名を連ねた五つの名家は、関ヶ原の大戦の末に大きくその明暗を分けることとなる。

前回の記事

戦国時代の天下人・豊臣秀吉を支えた5人の大名「五大老」たちの明暗【前編】

天下人・豊臣秀吉は自身の後継である秀頼が成人するまでの間、有力な五人の大名の合議制を採用して政権の安定を図った。徳川家康・宇喜多秀家・上杉景勝・前田利家・毛利輝元・小早川隆景(小早川は後に死亡したため…

「五大老」それぞれの運命

五大老に列席した五つの大名家の関ヶ原以降のありようをみていきたい。

徳川家

関ヶ原の戦いで「東軍」の総大将となった家康は、大戦に勝利したことで実質的な日本の支配権を手に入れた。1603年に江戸幕府を開府。1615年、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると名実ともに天下を統一した。以後、幕府の将軍職は15代に渡り徳川宗家の世襲制となり、265年間に及ぶ江戸時代を完成させた。

前田家

関ヶ原の戦いの直前、利家から家督を譲られていた利長は、徳川家に実母を人質に送ることで家康の信任を得ることに成功した。関ヶ原では「東軍」に味方し、徳川政権下では領地を加増され加賀・能登・越中120万石に迫る大大名家となり、「加賀藩」の礎を築いた。

毛利家

「西軍」の総大将に担ぎ上げられ敗戦を迎えた毛利家は、戦後の減封により本来の所領であった120万石から周防・長門2ヶ国の約30万石へと大幅な領地削減を余儀なくされた。
その後は「長州藩」として江戸期を迎える。幕末には倒幕運動の中心となり多くの維新志士を生んだ。

2ページ目 上杉家、宇喜多家

 

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