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優しさが命取り!新選組の中で唯一、女性問題で切腹した組長がいた!

優しさが命取り!新選組の中で唯一、女性問題で切腹した組長がいた!

新選組は剣術以外にも刀を抜刀できない程の距離まで相手に攻められた時や刀を失った時に相手を倒せる柔術も教えていました。刀で斬り合うよりも地味な柔術ですが、剣術には剣術師範がいるように柔術にも柔術師範がいました。

そして、新選組の10個ある組の中には剣術ではなく柔術で組長になった人物もいました。その人物は柔術師範頭で4番組組長の松原忠司(まつばらちゅうじ)です。

今回は忠司に関するエピソードを紹介します。

柔術の流派の開祖

播磨国小野藩(現在の兵庫県小野市)出身の忠司は安政4年(1856)に小野藩から退去命令が出てしまいます。理由ははっきりしておらず、退去後は大坂で過ごしていました。

大坂では船川楫之輔から学んだ柔術、天神真楊流(てんじんしんようりゅう)から派生した流派、北辰心要流(ほくしんしんようりゅう)を興し道場を開いていました。

門下生には新選組隊士で美男五人衆の一人、佐々木愛次郎がいたとされています。愛次郎は文久3年(1863)の新選組の前身である壬生浪士組結成を機に松平容保の要望で柔術を披露しています。

忠司もその時期に加入し、キャリアと技量から幹部に任命されます。同じ道場主の立場の近藤勇とは気が合っていたかもしれませんね。

2ページ目 そのいで立ちから呼び名は「今弁慶」

 

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