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ボーカロイドは内田裕也の夢を見るか / 内田裕也はボーカロイドの夢を見るか

ボーカロイドは内田裕也の夢を見るか / 内田裕也はボーカロイドの夢を見るか

アイドルソング・アニメソング・ボーカロイドなどによる日本のガラパゴスな音楽が、海外で高い人気を呼んでる昨今であります。開き直ったように日本独自の様式を誇るガラパゴス全開なサウンドが、ガラパゴス全開ゆえにインパクトと魅力を持ってしまう、21世紀の現在。

今の状況を見て、例えば40年前に「俺達は英語で歌い、世界を目指してる。日本語でロックやってる奴ばっかり持ち上げるな」と怒った内田裕也なんかは、どう思うのでしょう。今も色んな意味で元気な内田裕也ですが、1970年頃は今なお海外で評価の高い「フラワー・トラベリン・バンド」のプロデューサーとして精力的に活動していました。で、当時の音楽雑誌で「俺達をもっと評価しろ」みたいな趣旨の発言をしました。

http://www.youtube.com/watch?v=jI1lEluipBE

数年前に「奇書」として話題を呼んだ『JAPROCKSAMPLER』なるイギリス人による日本ロック本の中で、フラワー・トラベリン・バンドのアルバム『SATORI』は1位に上げられてます。70年代の1位ではなく、オールタイムの1位です。これに限らず、海外で日本ロック名盤が選ばれる際、今でも『SATORI』は大抵上位に入ります。内田裕也は、ちゃんと仕事してたのです。

しかし国内では、あんまり評価されない。変わり行く東京の姿とやらを日本語で描いた「はっぴいえんど」ばっかり、評価される。俺達だって一生懸命やってるのに。内田裕也の吹っかけた「日本語ロック論争」は、当時も今も「論争」ではなく「いいがかり」と考えられてますが、提起された問題は内田個人の感情を超えた、ややこしく、そして根深いものです。

現在の我々が『SATORI』を聴くと、誇張された東洋性みたいなものが耳につきます。恐らく、リリース当時でもそれは変わらなかったでしょう。「今の日本を生きる私たちの日常感覚」とは異なる、売り物としての日本。でも、そうしなくてはいけない、と。そうしないと、世界には出れない、と。

そんな内田裕也および『SATORI』の時代がかった力みとは真逆に、とことん「日本のまま」でいることで海外進出を果たした、現代のガラパゴス・ミュージック。音楽的にも人間的にも絶望的なまでに接点がない両者ですが、しかし、案外似てるところもある気がします。「今の日本を生きる私たちの日常感覚」とやらに基づいた音楽が今でも日本以外であんまり相手にされないのに対し、「日常感覚」と若干距離がありそうな両者は世界に受け入れられたあたりが。「外」へ出た途端に露になる「日本らしさ」のややこしさを、全身で体現してるあたりが。

両者、一度共闘してみてはどうでしょうか。内田裕也のボカロを作るとか。何も入力してないのに10秒に1回「ロケンロー」とか「シェケナベイベー」とか言うみたいな。アバウト過ぎる彼の音程の再現は、困難を極めるかもしれませんが。あるいは某ミクが『SATORI』を歌うとか。あ、これはもうあるかも知れませんね。

内田裕也 – Wikipedia

フラワー・トラベリン・バンド – Wikipedia

 

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